「仕事できたのに、長生きしたね」?―生きた価値と仕事の成果―
昨日の夜くらいから頭がズキズキと痛み始めました。
頭痛は珍しいことではないし、大体寝ると治るのですが、
朝起きると、まだ痛い。
少し悪化した感じもします。
なので午前中は布団で横になっていました。
ニートが平日朝から体調不良で布団で休む。
これほど惨めなことがあるでしょうか。
何もしていないんだし、暇なんだから、健康くらい気を付けろよ。
って感じですよね。
はい、気を付けます。
自分が「惨めだ」と感じたことのように、
頑張ってないように見られている人、出来の悪い人だと思われていると、
体調不良で休んだ時の周りの目がとても冷ややかなような気がします。
周り、といっても限られた人たちだとは思いますが。
しかし
だれだって体調は崩すのです。
生まれつき崩しやすい人は、どうしたって弱いときがあるのです。
それでも、その人のいろいろな「成果」と同じ評価軸で考えられてしまう。
社会人になったことがないのでよくわかりませんが、
会社勤めになると、一層この傾向が強まりそうです。
「体調」だけでなくあらゆるものを、
仕事上の成果・地位とともに考える、という価値観。
極論で例を出すと、
「仕事できたのに、すぐ亡くなってしまったね」
「仕事できなかったのに、長生きしたね」
これ、
「仕事できたのに、長生きしたね」とは聞いたことがありません。
こういう風にジャッジされて人は人生を終えるのでしょうか。
「生きた(ている)価値」=「仕事の成果、地位」?
もちろん仕事も、人生において重要な要素だとは思います。
それくらい働いてなくたって周りを見ていたらわかります。
やりがいもありそうですし、なにより人のためにすることですから。
しかし、それだけではなく
もっと様々な要素から「価値」は出来ているはずです。
はずだと信じたい。
その要素のなかで「仕事」の比重が高すぎると思うのは
きっと、社会のレールからはずれた考え方なのでしょうね。
いろいろ、考えてみましたが
社会人経験のない僕にはわかるはずもなく。
ただ、
人の評価を気にすることなどなければ
こんな問題どうだっていい、ということだけ分かりました。
でも、それも難しいんだろうな。
ではまた。