なまもの、けものブログ

70%ニートが、なんてことないことをかくブログです。

もういいかげん、敗北宣言として人に「死ね」を言うのはやめませんか?―『花子とアン』の美輪明宏を見習おう―

困ったことに、世の中に「死」があふれすぎている。

 

ある地方議員が、ツイッターで「死ね」と呟いたことで辞職したというニュースがあった。

 

今度は共産区議が暴言で辞職 ツイッターで「死ね」「人間の屑」 - 政治・社会 - ZAKZAK

 

 

もちろん議員としては考えられない言動。辞職も当然。

しかし、日常に「死ね」はあふれている。

ツイッターを含めネット上では平然と多用されており、

対面でも子ども同士で軽く「お前死ねよ」などと言う場面は珍しくない。

(社会人でもそういう場面があるのか興味がありますが。)

「死ねよ!」→「生きる!!」なんてギャグもある。

 

少し方向性は異なるが、

「死」という言葉は、他人だけでなく自分に対しても日常的に使われている。

「暑くて死にそう」や、

「今週忙しすぎて死んだわー」など、

ストレスがかかった状態を形容するときに「死」をよく耳にする。

 

ほんとうに、死ばっか。

 

自分に対しては、まだいいとしても

他人に対して、

このような「死ね」の使い方を許容したり笑い飛ばしたりすることに

多くの人は何とも思わないのか。

言われても、何とも感じないのか。

だから、こんなに「死ね」があふれるのか。

 

僕はおかしいと思う。

自分自身が言ったことがないからだと思うが

「死ね」なんて言われたら、かなり傷つく。

そもそも苦しみを誰も理解することができない「死ね」を冗談として使うのも疑問である。

周囲に不幸があった人がいた場合は、相手を深く傷つける可能性だってある。

「死ね」を軽々と発する人は、

「この人、周りの人のことが考えられない人なのかな」と感じる。

 

 

だが、

多分「死」を発言する当人は、

本当に心の底から「死ね」とは思っていないはずである。

冗談のつもりで言っているのだと思う。

 

ではなぜ「死ね」を気軽に発する人がいるのだろうか。

 

それは、おそらく

「死」なくして強力なインパクトをもたらす表現力が欠けているからである。

 

 

 

言葉を伝える(言葉が伝わる)ためには、それなりの語彙や表現力が必要となる。

情報が氾濫する現代では、とくに。

 

語彙や表現力を持ち合わせていない人は、どうするか。

 

「死」を使うのである。

 

常識的な言葉の使い方のラインを越えるしかないのだ。

 

でないと、周りは振り向いてくれないのだ。

周りと太刀打ちできないのだ。

 

 

「死」を軽々しく使うこと、

それは発言者の表現力の欠如の表明である。

 

また、言葉に対する敗北宣言でもある。

 

言い争いになって、

言い返せなくなって、

言い返す言葉見つからなくて、

白旗をあげるように「死ね」と吐き捨て逃げる

子どものように。

 

 

「逃げ」ることは悪くない。

そして多くの人は、

軽々と「死」を発すること=「逃げ」

だと認識して重く受け止めていないと思うが、

 

「逃げ」として「死ね」を使うのはどうにかならないか。

 

他の言葉を使って「逃げ」を行ってほしい。

 

 

 

「ごきげんよう」なんてどうだろうか。

 

この言葉はもちろん、

朝ドラ『花子とアン』を見ていてみつけた言葉である。

 

気品のある「別れ」の言葉として

美輪明宏さんが毎回「ごきげんよう、さようなら」と締めくくる。

(7月18日放送の愛の賛歌ラストは例外だが。)

 

ごきげんようは「別れ」の言葉としてだけでなく

「逃げ」の表現としても使える。

 

 

「死ね」なんかではなく

「ごきげんよう」があふれる社会になってほしい。

 

ではまた。