「あだ名を付けて保存」を繰り返す人生。
こんばんは。
最近、中学の同級生から連絡がきた。
僕は、中学時代のあだ名で呼ばれた。
とてもなつかしい。
明日、高校の部活の仲間と会う。
僕は、高校時代のあだ名で呼ばれる。
まあまあなつかしい。
僕には名前がたくさんある。
本名は1つだけど、呼ばれ方は人生の段階によって違う。
僕の苗字も名前も、ありふれたものだからなのかもしれない。
それとも、あだ名で呼びたくなる人間なのだろうか(どんな人間だろう)。
僕の本名が「田中太郎」だと仮定して説明してみると、
小中学校は、名前からとった「たろっち」
高校は、苗字からとった「たなやん」
大学は、なにもなくて「田中」か「太郎」
バイト先では、苗字(田中)に関連した芸能人からとった「マー君」
ほかにも、短期バイトや実習、就活のグループワークでさえもあだ名をつけられてきた。そして、全部違うあだ名だ。
(画像:田中将大 - Wikipedia)
だから、街中で後ろから呼びかけられたとしても
僕を何と呼ぶかで、その人がいつの時代の知り合いか判別可能だ。
*
中学は卒業以来もうすぐ10年近くになるが
僕のことを同級生は躊躇なく「たろっち」と呼んできた。
彼にとって僕は永遠に「たろっち」なのだろう。
ただ、「たろっち」と呼ばれたとき
少し戸惑った。
今現在の「田中太郎」と「たろっち」は乖離しているからだ。
でも、僕は「たろっち」になれなかったわけではない。
「たろっち」と言われた瞬間
今の自分から「たろっち」モードに切り替わった。
不思議なものだ。
中学時代の友達とは何年も関わり合いを持ってこなかったはずなのに
「たろっち」モードになった途端、次々と頭の中からあのときの記憶があふれてくる。
過去の恋人のたとえでよく使われているが、
僕の人生は、「名前を付けて保存」
いや、「あだ名をつけて保存」を繰り返してきているらしい。
「田中太郎」というなかに
時代時代ごとの「あだ名」がつけられたフォルダがたくさんあって
「たろっち」と呼ばれれば「たろっち」フォルダを、
「マー君」と呼ばれれば「マー君」フォルダを開く。
「マー君」フォルダのなかに「たろっち」の面影は、ない。
1つの土地・グループに安住してこなかったこともあって、
フォルダごとの相関性は低い。
なので、こうもたくさんのフォルダがあると僕が何人もいる錯覚を起こす。
「たろっち」ってこんなキャラでよかったかな、と不安になる。
過去の自分を、今の自分が演じてしまうことほど怖いものはないのだ。
*
ああ、
ますます、「本当の自分」とやらがわからなくなってしまった。
とりあえず
あしたは「たなやん」フォルダを開いて乾杯だ。
ではまた。