自分で自分のこと語るのダサくないですか?byイチロー
こんばんは
『問題のあるレストラン』、もう来週で終わりなのかと思いながら
チャンネルを回すとイチローがインタビューに答えていた。
アメリカを拠点としているイチローなのに、
雰囲気も、言動も、とことん日本くさいのが不思議だが、そこが大好きだ。
調子はどう?というありきたりな質問に対して
「自分で自分のこと語るのダサくないですか?それは他人が決めること」
と彼は答えた。
正論過ぎて、インタビュアーも、テレビの前の僕も言葉がでてこなくて
ただただ彼の眼差しをうらやましく見つめていた。
たしかに、ダサい。
みんなそのことをわかってるはずなのに、「自分語り」をさせようとする。
社交辞令みたいなものなのかな。
自分のことを語る場面は、病院の診察くらいでいいのに。
自分を語るということは、自己を振り返って思ったことを相手にわかるように言語化するということ。すると、その過程でどうしても「脚色」が入ってしまう。自分で自分自身の物語のなかに組み込んでしまう。
自分を律している人は、その「脚色」のことをダサく感じるだろうし、
自分を愛しすぎている人は、その「脚色」のせいで一層自己陶酔に走るのだ。
どちらにしろ、何の生産性もない。
自己中心的な性格の相手に調子に乗らせるだけの質問なのだ。
でもなぜ、この世から「自分語り」を引き出す質問がなくならないのか。
多分、相手を評価することが面倒だと感じるからだろう。
評価すると評価した自分側の責任も発生するから、相手にひとまず自己評価語らせといたほうが楽ちんなのだ。
もっと普段から、多角的に、相手のことを考えられる社会になれば、「自分語り」などしなくてもよくなるのだけど、そうはいかないのですね。
だからせめて、「自分語り」なんてダサくない?と笑いながら言える人生にしたいと思った。
ではまた。