「心の瞳」に出会った、中2の秋。
こんばんは
今日の表参道高校合唱部は見ていて感動した。
「心の瞳」。
僕も中学生のときに歌った。
僕の同級生には「ながい」っていう人がいて
2番の歌詞をそいつの名前に変えてみんなで歌っていたなあ。
ながいくん、元気でしょうか。
あれから、もう10年になるのか。
はやい。
年月を重ねただけあって、
「心の瞳」の歌詞の捉え方、感じ方はまるで違う。
こんな単純なようで深い歌を、中学生に歌わせていたんだなあ。
中学生のときは、「好きな合唱曲」という位置づけだったけれど
今日改めて聞いて、大好きな曲になった。
たぶん、年齢を重ねれば重ねるほど心に沁みる歌なんじゃないかと
隣で号泣する母を見て、思った。
*
校長の心の葛藤は、高畑淳子の演技のよさも相まって
考えさせられた。
愛する人が重病になったとき
治療をするか、
治療をやめて残された時間を目一杯駆け抜けるか。
どちらの選択をするにしろ
きっとその人が亡くなったあとには後悔するんだと思う。
周りの人がちっとも後悔しない死なんて、ないから。
でも、後悔はしていても
下を向き続ける必要はないと思う。
後悔をしながら、上を向いて歩いていくのが
人の死との向き合い方なのかなと若造はおもうわけです。
*
僕よりももっと若い、
未来の光そのもののような命が失われた事件。
最悪の結末となってしまった。
僕が心の瞳と出会った年齢よりも前に生を奪われたのだと考えると
悲しさよりも、衝撃に近いものがある。
彼らに、中2の秋は永遠にこない。
僕に何ができたわけでも、
また今後何か直接的にできるわけではないけど
あの子たちの死を悼むとともに
同じ社会で生きている者として「ごめんなさい」という感情もどこかにある。
こんな事件が起きる社会で、ごめんなさい。
無責任な「ごめんなさい」かもしれない。
短絡的な「ごめんなさい」かもしれない。
でも、
この事件を社会の「例外」としないためにも、
もう二度とこんな事件を起きない世の中にしていくためにも、
事件を受けて自分の中に生まれた「ごめんなさい」は
忘れないようにしようと思う。
ではまた。