時の移ろいは、無情です。 ―山手線、新車両導入で中吊り消滅―
こんばんは
山手線新車両のニュースを見た。
高齢化にあわせて、優先席が増加するのだそう。
一度座ったら意地でも譲らない、なんていう人はあまり見たことがないので
いまの座席数でも問題ないように思えるのですが
高齢者へ配慮しましたよアピールをすることが一番の目的なのかもしれません。
そして驚いたのが、中吊り広告が消滅するということ。
紙の広告は姿を消し、デジタルサイネージになっていくらしい。
時代の流れからいうと当然の変化かもしれませんが
「消滅」というワードを聞くと、古い時代が打破されていくようで少しこわいです。
いままで中吊りを変える仕事をしていた人、どうするんだろう。
いま僕のよく利用している電車では、
作業着を着た数人が広告と低い脚立を手に持って終着駅で待ち構えていて、
電車が到着すると折り返しまでの短い時間で手際よく広告の入れ替えをしている。
破らずにきれいに取り外し、新しいものをまっすぐに配置する。
もう職人の領域だ。
電車内だけではない。
駅構内では、壁一面の広告スペースにきれーいに張り付けている「職人」さんもいる。
彼らの仕事は。
いずれなくなってしまうんだろう。
彼らの会社は。
彼らの家族は。
どうなってしまうんだろう。
全部広告がデジタルになってしまう日を想像してみた。
電車内で発車を待っているとき、手際のいい広告の張替をするオッチャンをみることは、もうない。
混雑車両でかろうじて掴んだ中吊り広告が引っこ抜けてしまって、「抜けちゃいましたね」「フフフ」とか言いながら車内がすこし和むことも、もうない。
朝、駅の大きい広告スペースが張替途中で「これは何の広告なのだろう」と分からなくて、帰りに「あぁ、こういう広告だったのか」って気付いて心があったかくなることも、もうない。
ものがなくなるということは、それに付随した体験もなくなるということ。
その体験はもう2度とやってこないと想像すると、いままでなんてことなかったはずなのに、胸がキュルルルルと締め付けられる。
それが、時代が変わるっていうことなんでしょう。
時の移ろいは、無情です。
ではまた。