未熟な僕にとっての竹田圭吾
こんばんは
ジャーナリストの竹田圭吾さんの訃報を目にして
驚きと、でもどこかで覚悟していたような悲しみに襲われている。
テレビのニュース番組では
静かな語り口調でズバズバと斬っていく姿が印象的で、
ある文章を読むまでは、
竹田氏のことを「なに上から目線で語ってんだよ」って上から目線で捉えていた。
僕は安い人間なのだ。
*
でもこの文章に出会ってから
一転して僕は竹田ファンになっていた。
僕はやっぱり安い人間なのだ。
僕も真央ちゃんの演技に感涙した一人だった。
「彼ひとりの~」は、そのときの僕の感情を見事に言い当てているかのような文章で、
共感し、また泣いた。
いま思うと、竹田氏の経験した辛さとはレベルが違うんだけれど、
そのときの僕は、「竹田さんも辛い思いをしていたんだなー」と、
同類意識をもって好意を抱くようになった。
*
なぜ、僕みたいな人間がピンピンに生きていて、
なぜ、彼みたいな人間がこの世を早く去るのだろう。
僕と同年代、あるいは知り合いが亡くなるといつも思うことを、
今回も思った。
竹田さんは、病気を抱えながらも、
可能な限りテレビに出て、いつもの語り口調で世の中を斬っていた。
去年の復帰後は、かつての面影はほとんどないくらいになっていたけど、
その生き様は、
「俺はここまでしてテレビにでているのに、おまえは気楽に生きていていいのか」
と画面を通して訴えかけられているようだった。
その語り口調を聞くたびに、僕も頑張らなくては、と思っていた。
僕にとっての竹田さんは、
彼にとっての浅田真央のような存在に近くなっていた。
もしかしたら竹田さんも、真央ちゃんのような生き方をしたいという信念を持っていたのかもしれない。
*
悩み事なんか息をする度に増えるのが生きるということだけど、
「死」を目の前にしたら、そんな辛さなど、どうってことない。
僕はまだその当たり前なことを、
だれかの喪失によってしか再確認できていない気がして
なんて心が幼稚な人間なんだと自省している。
明日からも、しっかり息をして、生きたい。
息ができる限り、生きねばならない。
その生き様で、誰かを動かせるほどまでに。
竹田圭吾さんの生き方に最大の敬意を、
そしてご冥福をお祈り申し上げます。
ではまた。