なまもの、けものブログ

70%ニートが、なんてことないことをかくブログです。

終戦記念日

こんばんは

今日は69回目の終戦記念日でした。

晴れ渡った空、蝉が鳴くなか、黙とうを捧げました。

69年前の今日も同じ空の青さだったのだろうか、同じ蝉の鳴き声だったのだろうか。

目をつむると、さまざまな想像が頭を駆け巡りますが、

僕が生まれたときはまだ戦後46年だったと考えると

時の流れの速さを感じます。

 

 

僕の生きてきた時代は「失われた20年」といわれるが、

平和は、決して失われていない。

 

平和が当たり前だ。

間違いなく平和ボケしていると思う。

 

終戦の日で、ドラマやニュースの特集を見ると

「今の平和に感謝しなくちゃいけないなあ」と思うし

悲惨な当時の状況に胸が詰まる思いになるけれど、

1週間もすれば、いや明後日になれば

たぶんその思いは薄れて、いつもの「平和ボケ」のまま暮らしていってしまう。

「今日も平和だ、ありがとう」

と自然には思わなくなる。

 

しょうがない。

実際に経験していないから。

 

いつもあるものに感謝することというのは

何かきっかけがないとできないし、

そのきっかけが過ぎれば、また「あたりまえ」なことに戻ってしまう。

しょうがない。

残酷だけど、しょうがない。

 

【全国戦没者追悼式】100歳で参加の難波いそさんの会見

 

でも、戦争を経験した人は違う。

今回追悼式に出席した100歳の難波いそさんの会見でもあったけれど

若い人を見ると、若くして戦死した当時の仲間たちを思い出すし

爆撃の惨状を今でも思い出すことがあるという。

この人たちにとって、平和は、全然「あたりまえ」ではない。

 

 

 

69年前というと昔のように感じられるけれど

長い人類の歴史で見れば、

僕は戦争直後に生まれた世代であり、

戦争経験者と接することのできる数少ない世代の一人である。

その役割と責任を僕は果たせているだろうか。

後世に伝えられる何かを自分の中に持っているだろうか。

戦争をしてはいけないということを血の通った話で子どもに伝えられる親になれるだろうか。

いまは、まだできていない。

はやく果たさないといけない。

時間は待ってくれないから。

 

 

自らの経験を持って、

平和が「あたりまえ」だと感じない人は

いつかは確実に途絶える。

 

それまでの猶予の時間は、

もう残り少ない。

 

僕には偶然いま時間がつくれるときだから

なにかしなくてはと思った。

画面を通してではなく、顔を合わせて思いを受け取ってみたい。

 

 

ではまた。