iPhone修理したら、親に感謝したくなった。
こんばんは
今日は修理に出していたiPhoneの受け取り行ってきた。
短い期間だったけれど、代替機との別れはすこし辛かった。
代替機はこのまま送り返しますって言われたのだけれど、
代替機って、一生誰のものにもならないのだろうか。
一生代替機って辛い。
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そんなわけで、修理されたiPhoneが帰ってきた。
幾分か輝いて見える。
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修理に出したときは、とても緊張した。
修理の受付のお姉さんは、まるでお医者さんのようだった。
どこか異常がないか、細かくチェックしていく。
僕が今までしたこともないような操作をして、見たこともない画面を出して
検査をしていたので、
僕は目をまん丸くして一部始終を見ていた。
そしてお姉さんの手さばき見ると同時に、
自分のiPhoneがどのような様態なのか、とてもドキドキしていた。
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親が我が子を病院に連れていくときって、こんな感じなのだろうなと思う。
何かへんなもの食べさせなかったかな
もっと野菜食べさせればよかった
あの日は無理して遊びに連れていくんじゃなかった
寒くなってきたから長袖きて寝させるべきだった
まだ、診断結果は出ていなくても
もし深刻だったらどうしよう、親であるワタシのせいだ。
という気になる。
いままでの行動を振り返って、反省する。
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同じことを、iPhoneにも思っていた。
「ごめんなさい」という気持ちさえ起きていた。
結果として、僕の使用方法と故障の原因は全く無関係だった。
無料で修理してもらえた。それはそれでよかった。
そして、今日修理されて戻ってきて万々歳なのだけれど
今回のことをきっかけに、もっと大切に使ってやろうと思った。
同時に、若干の心労もあった。
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僕は小さい頃、とても医者の世話になる子どもだったらしい。
生まれた直後からしばらくは、保育器に入っていたみたいだし、
他の兄弟とは比べ物にならないくらい熱を出したそうだ。
いまでは、両親は笑い話として僕に当時のことを聞かせてくれるけど
多分相当心労があったと思う。
僕の調子を親が全てコントロールできるわけがない。
でも、なぜ調子が悪くなったのか、親は全部自分の責任として考えただろう。
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僕がiPhoneにかけた思いより、
何百倍も、何千倍も、
親が子に向ける思いは重い。
小さい頃の記憶は、たいていなくなっていくから、
体が丈夫になっていくのと比例して、子は親の思いを忘れていってしまう。
まあ、それはそれで親も安心するのだろうけど。
しかし、その子が親になると、その思いは復活する。
こんな大変な思いをして、親はワタシを育ててくれたんだ、と思う。
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僕はちょっとした(iPhoneの)「親」として
一連の「思いの連鎖」を擬似体験したわけだ。
僕はビュンビュン動くiPhoneを手にしながら、
両親の背中にありがとうとつぶやいた。
ではまた。